短編小説

月を孕む女

(1)赤い月が流れる夜

 

赤い月が流れる水曜日であった。わびしいワンルームのアパートに備え付けられた、小さな窓の外には、真っ赤な呪わしげな月が、曇った空からその顔をのぞかせていた。

そして、この女――ウェズも、月を孕(はら)んでいた。

正確には、孕んだ月が、真っ赤な鮮血で流れていったのだ。ウェズは、女子寮では月の周期に合わせて月のものが来る、という話を小耳にはさんでから、ずっと自分も子宮の中に小さな月を育てているように感じてきた。

だが、その彼女の嬰児(みどりご)のような月は、男性の遺伝子と結びつくことなく、むなしく流れ去って行く。

彼女には、その血がなぜかいとおしかった。一週間ほど前から、薄茶色をしたおりものが排出される。そして初日には鮮血がほとばしり、鼓動のように打つ腹部の痛みを押さえながら、四日目以降にはどす黒いどぶ色をした血へと変わる、その自分の分身が。

ウェズは、先ほどから、お気に入りのサニタリーショーツと布ナプキンを、生地を傷めないように慎重に洗っていた。この下着類には、洗濯機は使わない。自らの手で洗い、月の葬送とするのだ。そして、仕上げにきちんと広げてしわを取ると、ハンガーのピンチに挟んで乾かした。その時初めて、惰性でつけていたラジオの、懐メロが流れているのに気付いた。それほど彼女は集中して洗濯していたのだった。

携帯が鳴った。この音は、店長である。彼女はため息をついて、ラジオを消すと、電話に出た。

「もしもし」

「ウェズさん? 今日はお疲れ様。まだあれは最中? 」

彼女の月のもののことである。

「はい」

「じゃあ、明日も出てくれないかな? シフトが回らなくて」

本来なら、彼女は水曜日の当番である。だから、源氏名も「ウェズ」――ウェンズデイ、即ち「水曜」である。

「でも、明日はスナックのバイトが」

「お願いしますよ。ちょうどよく、あれが来ている人がいなくて、困っているんです。ウェズさんだって、もしかしたら、『水曜』以外にあれが来て困るかもしれないし」

「……わかりました」

ウェズは仕方なく同意した。マネージャーは簡単に礼を述べて、通話を切った。

静寂が広がった。夜の赤い月を流した彼女は、腹部の痛みをこらえた。

彼女が「本業」としているのは、「月のものの最中の、女の陰部を嗅ぐ」フェチズムにとらわれた男たちの相手である。

この仕事は、昼間の仕事である清掃業で、仲間の女子清掃員から漏れ聞いた。彼女は「気持ち悪い」と笑っていたが、もともと自分の「月のものの血」に異様な関心を持つウェズは、すぐに「店」に連絡を取った。

「店」は、こぢんまりとしたマンションの一室にあった。ぎりぎり合法的なのであろうか。風俗業に近いというのに。

店長は、四十半ばの彼女から見れば、「小僧」であった。二十代前半くらいの、大学を卒業したて、といった小柄な青年だった。

彼の説明を聞くと、「月のもの」に関心を抱く男性は意外にいるらしい。中には、女子トイレのサニタリーボックスから、使い捨てナプキンを盗んでいく者もいるという。そこに目をつけて「企業」したのが、この店長であった。

風俗と違い、いわゆる「春をひさぐ」必要がないため、登録している女性は意外にいた。もちろんウェズも早速登録した。そこそこのバックももらえることも決め手となった。

源氏名は、「ウェズ」にした。なぜか、彼女の月は水曜日に零れ落ちることが多々あるからである。それで、特別に「水曜担当」にしてもらった。店の客の指名用パネルには、首元のたるみを隠し、目もとの小じわを消してもらった。まあまあ満足のいく写真であった。

そうして彼女はこの店「ブラッドムーン」で働き始めたのだ。いつもは、清掃員、スーパーのパート、スナックのホステスを掛け持ちして、生活している。

彼女は独身で、生活は苦しかった。皮肉なことに、自分の「分身」を売ることで金をもらい、ようやく生活は成り立っていた。客がくれるチップもかなり役立った。

彼女は元犯罪者であった。家庭が複雑で、夜に出歩いては、いわゆる「やんちゃな」若者たちと付き合っているうちに、傷害と窃盗で捕まった。二十を越していたので、少年法は適用されなかった。それでも、数年の刑期をつとめ上げたが、娑婆に出た彼女に職はなかった。かたぎの人間でも職にあぶれる時代である。どうして元犯罪者を好んで雇う会社があろうか。それで、彼女はアルバイトを転々としてなんとか生計を立てた。保険料も、年金も支払えなかった。ただ、今を生きているので精一杯だった。

ようやく見つけた清掃員の仕事でも、彼女の罪の噂はどこからか広まり、友達ができなかったウェズは、孤独に耐え兼ね、携帯のフリーメールに多く登録した。そのアドレスに届くメールが、たとえいかがわしい金儲けに誘うメールであっても、怪しげな出会い系メールであっても、彼女は喜んで読んだ。それが、社会とつながり、誰かと絆が結ばれているような気がしたからである。

*****

ねっとりとした流体が、腹から絞り出された。ウェズは、あわてて狭いトイレに駆け込み、先ほど替えたばかりの布ナプキンを確認した。夜用でなかったような気がしたのだ。

だが、それは気のせいだった。赤く黒みがかった粘質の液体は、じんわりと愛らしい布にしみこんでいた。彼女にとっては、できるだけかわいらしい柄のナプキンを買うことが、ささやかな楽しみであった。そう値段も高くないので、手ごろな趣味だ。そして、彼女が異常な関心を持つ「月のもの」が、少しでも楽しいものになるように、という女心でもあった。

日々の苦しい生活ですさんでいく心のよりどころが、遠い昔の少女心をときめかせるモチーフがプリントされた布ナプキンと、サニタリーショーツであった。それを洗濯するとき、彼女は過去を思った。実父がまだ生きていたころの、かすかではあるが幸せな思い出。彼女が覚えていたのは、クリスマスに実父から、リボンを結ばれたウサギのぬいぐるみをもらったことだった。それが、彼女の生きる支えであった。自分をかわいがってくれた父、愛情のしるしとしてのぬいぐるみ。ゆえに、彼女のナプキンコレクションも、リボンとウサギのモチーフが多かった。かつて愛されたという証……。

――思い出にふけっていても仕方がないわ。楽しい記憶ではおなかいっぱいにならないもの。

ウェズは、スナックのママに電話をして、体調が悪いので明日の夜は休むと伝えた。ママは、疑いつつも了承してくれた。

そして彼女は、明朝の清掃の仕事のために、目覚ましをかけた。明日は早番である。企業の出勤時間の前に、清掃を済ませてしまうのである。

ウェズは、いつものように、タンスの上に立てかけている、安物のフレームを手に取った。品は百円ショップで買ったが、中に収めた写真は金額に換えられないものだ。

――今でも愛している男性。短い期間、恋人として付き合った人だ。ふちのない眼鏡がよく似合う、短髪で少し筋肉質な人。いとしい人。今では、もう会えない。……失踪した実母の夫になったから。

彼女はあかりを消した。ぼんやりと、まだひかりの残る室内に、今はもう戻れない過去を見ていた。

(2)母の「堕胎」

 

夢を見た。さび付いた大蛇が、腹の中で縄をなうようにうねり、やがて肉色の子宮を食いつくした。ウェズは、ただぼんやりと自分の身体を、遠くから見つめている感覚に襲われていた。自らの肉体が禍々しいおろちに食われようとしているのに、彼女は一切助けを求めなかった。そして考えた。

自分が自分を助けないのに、どうして他人が救ってくれるだろう!

蛇は、ウェズの肉体を食い破る。痛みはない。ただ、孕んだ月が崩れかけた廃墟のような静けさの中で、産声を上げられず、流れていった。その月を、ウェズははっきりと見た。

もう数十年会っていない、失踪した母親のしわが深く折りたたまれた顔だった。化粧で隠せないたるみ。目じりの小じわ。夜遊びから帰ってくると、置き手紙もなく、ウェズの元恋人の夫と失踪していたあの母親だ。今のウェズとそっくりな顔をしている。彼女は戦慄した。

――わたしは、ハハを堕胎していたのね。

ウェズは自分の深層心理をはっきりと悟った。彼女は、母親を毎月孕んでは、おろしていたのだ。

母親は、苦し気に声を上げようとした。ウェズに呼びかけるように。

――何、ハハ?

母親は、うめきながら声を絞り出した。二日目の腹部から織りなされる経血のように。

――死ね。あたしが死ぬくらいなら。お前が死ね。

ウェズは、はっと飛び起きた。

一滴の涙が、零れ落ちた。母親の前では許されなかった、「泣く」という「親への媚」。

――そうだ、ハハの口癖だった。ハハは、「死ね」とよく言った。でもわたしは死ねずにここにいる。きっと、ハハをこの世から堕胎したいのだ。

目覚ましが鳴った。ウェズはのろのろと起き出した。ぬぐってもぬぐっても、涙が零れ落ちる。

――今、この部屋では泣ける。ハハはいない。でも、チチもいない。わたしには、誰もいない。わたしは、いらない人間、むしろこの世から早く出ていけと言われている人間。化粧の下は、しわくちゃのシャツのような、靴でぐりぐりと踏みつけられたような、泥の顔。

それでも、仕事に行くときと、毎朝送られてくる天気予報のメールだけが、ウェズを生かしていた。きつくて薄給の仕事でも、床を磨いていると無心になれたし、世の中に役立っている気がした。そして、お天気メールの能天気な文句が、自分にだけ宛てて、見知らぬ誰かが時間を割いて送信してくれているような気がした。それが、たとえ何億人分の一でも。

 

*****

 

「いらっしゃいませ」

室内に客が入ってきたので、観ていたテレビを消して、ウェズは頭を下げた。

「お久しぶりです」

この若い客は、常連だった。いつも月ごとに様子を見計らっては、指名してくれる。彼の言うところによれば、元の彼女に似ているのだそうだ。だが、そんなことはどんな客でも言いそうなお世辞だ。ウェズは笑って受け流していた。

「一月ぶりですね」

「ええ、あれの周期上ね」

ウェズはそんな軽口をたたきながら、既にスカートを履いていなかった下半身から、ピンクの下着をひらりと舞い落ちるように脱ぎ捨てた。そんな小技も、客を引き留めるテクニックである。

「いつものように、シャワー浴びていませんけど」

「それがいいんです」

「でも、汗臭いかも。会社の仕事で、重いもの持ったから」

ここでは、ウェズは会社員ということで通っている。身分を詐称することで、ウェズは本当に自分がキャリアウーマンとして働き、生きがいを見出しているような陶酔に陥ることができた。

「汗が、またいいんですよ。チーズの臭いがしたら、なおいいかな」

客は、くすりと笑った。この客は、以前少しだけ語ってくれた昔話によると、牧場の息子らしい。それで、チーズの臭いの汗を好んだ。もっとも、ウェズと同じく、どこまで本当のことを話しているかはわからない。本当は、フリーターかもしれないし、はたまた大企業の息子かもしれない。そんな欺瞞に満ちた世界ではあったが、月を孕んだ女の匂いだけは本物である。

ウェズは、薄い布団に横たわった。狭い部屋であるし、小さな店なので、ベッドはない。ベッドを置けるくらいの部屋を借りて、女性たちの待機部屋を多く作ることが、今の店長の目標であるらしい。

客は、スーツの上着を脱いだ。しわが体に添う、サイズがぴったりのシャツを着ている。そして、眼鏡をはずした。舌で唇をなめると、ウェズに近寄ってきて、彼女が股を広げたその間に、顔を埋めた。

 

*****

「ありがとうございました」

客が、満足そうな笑みを浮かべて去って行くときに、ウェズは一礼した。今日の彼の懐具合はなかなかで、チップもはずんでくれた。なんでも、汗をかいた陰部の匂いが、外国産の高級チーズのようにかすかにフルーティーで、かつ錆の匂いがよかったのだそうだ。そんな舶来もののチーズなど、口に入れたことがないウェズだったが、ほめられて悪い気はしなかった。

彼女は、いつも待ち時間にテレビを見るか、童話を書こうとしていた。テレビのチャンネルを切り替えるが、面白いものがなかったので、携帯を取り出した。このメール機能で、少しずつ作品を書こうとして消していた。いや、「書き上げたい」というより、「空想したい」という方が正解かもしれなかった。

童話作家になりたい。それは、ウェズの少女時代からの夢だった。実父がプレゼントしてくれたウサギのぬいぐるみを主人公に、作品を冒頭だけ書いてみたのが始まりだった。だが、母親がそれをばかにした。

「そんな暇があるなら、身体でも売って稼いできな」

と言い放ち、夜の街へ消えていく毎日だった。実父が亡くなってからは、遊び癖がひどくなり、男を引っ張り込んでは酒盛りをした。ウェズは、耳をふさいで、ただ夢の世界に飛び込んだ。

十四の年に、満月を孕んだ。母親は、何も教えてくれなかったので、病気かと思ったが、保険医に相談して、ことの次第を知った。

月が流れていく一週間を過ごしながら、ウェズは痛みで駆け込んだ保健室で、最初で童話を書き上げた。ベッドの上で、冷えと不規則にやってくる痛みが、死ぬかもしれないという恐怖が、何かを遺したいという彼女を創作に駆り立てたのだ。

それは、「釘」という童話だった。主人公は、ある青年官吏の机に刺さった釘だった。その釘が、青年の恩義に感じて、自分の体を錆びさせ、病に倒れた青年の魂をつなぎとめる……そんな話だった。

ウェズは、亡くなった実父を思って書いた。知っている限りの言葉を尽くして、心を込めて書いた。実父の魂をつなぎとめたいという、または母親の離れていく心を、自分のからだと結び付けたいという願いの表れだったのかもしれない。

ある時期から、母親は急にウェズのご機嫌を取り始めた。彼女は素直に喜んだ。「釘」というあの童話の魔法かもしれないとさえ思った。そして母親は、彼女に恋人を作るように、それとなくうながした。その時から、月に一度胎内に月――母を孕んでいたウェズは、助言にしたがって、ある男性と付き合い始めた。それが彼女の住まいにある、大切なフレームの写真に写っている男性である。

しかし、それは母親の巧妙な罠であった。色香の衰えで、男を篭絡できなくなった母親は、娘に恋人を作らせて、その彼を奪ったのだ。具体的には、一時の浮気と見せかけて、情欲の時間を持った。そして、避妊グッズに穴を開け、彼女は妊娠した。のっぴきならない立場に追い込まれたウェズの恋人は、仕方なくウェズを捨てて、母親と再婚した。そして、母親は自分を「ハハ」と冷たく無機質な言葉で呼ばせるように。娘の元恋人で現在の夫を、「チチ」と呼ばせた。半ば脅しだった。

ハハとチチの子供は、死産だった。ウェズは、心のどこかでほっとした自分を責めた。痛ましく流れた子供は、女の子だった。月を孕む種が、一人断たれた。そんな気がした。ウェズは、心の中に、妹の魂をとどめる釘を打ち、葬送とした。

その月の赤い流れは、妹だった。

 

それからすさんだウェズは、「やんちゃ仲間」と共に転落していった…

 

(3)月の香りをもう一度

 

「ウェズさん、ご指名です」

メールで童話を書こうとしていると、待機部屋に店長がやってきた。

「どなた? 」

「新規の方。かなり裕福そうですよ」

店長はほくほくしていた。これは、かなり上客なのだろう。ウェズも、わくわくしてきた。

「お通ししてください」

通されてきた客は、五十がらみの紳士だった。頭頂部は薄く、白いものが混じっている。スーツをぱりっと着こなしてはいるが、どことなく品がない。ブランドもので固めているので、金持ちとわかるものの、そうでなければただのはりぼてのようなものだ。二重あごで、涙嚢が垂れ下がってきている。彼の、老眼鏡の奥の小さな目がきらりと光った。

「ウェズと申します」

「どうも、今日ははじめまして」

話してみると、人当たりのいい初老のおじさんだった。口調からは、とてもこのような趣味の男性とは思えない。

「ここでは、その……女性の局部を堪能できるとうかがいましたが」

「ええ、まあ。それも、あれの最中の」

ウェズは笑って見せたが、紳士は笑わなかった。

「私も、このような趣味には覚えがあります。若いころですがね」

「皆さん、そうおっしゃいます。それが元で恋人に振られたとか、よくうかがうお話ですよ」

彼女は、場を和ませようと冗談めいて話すが、紳士は表情を変えない。

「あなたのパネルを拝見して、探していた女性に出会ったと思いました」

「まあ、運命の女性? 口がお上手ね」

「そう、運命です。あなたは、もしかして○○ではありませんか? 」

紳士は、ウェズの本名をずばりと当てた。彼女の月はおののいて、子宮の奥に隠れた。

「なぜですか」

「ずっと探していた女性に、あまりに似ていて。私の妻の娘さんです。元恋人でした。しかし、事情があって、一緒になれず……。悔いて、出張のたびにこうした店をのぞいていました。彼女には、『月のもの』に対する執着があり、それが手掛かりになるのではないかと……。妻も、そうなのです。今は閉経しましたが、それまではあれの度に、私を脚の間へ誘い込んだものです。そして、この店であなたを見つけた。あなたは、妻にそっくりなのです。四十半ばだったころの妻に。今更一緒にはなれません。失うものが、お互いに大きいことでしょうから。だが、一言謝りたくて」

紳士は、一気に語った。ウェズは、何も言わなかった。ただ、手を差し伸べた。

「わたしは、別人です。でも、どうか私の匂いを味わってください。それで、あなたの気が済むと思いますよ」

「どうしてです」

「○○は、死んだのです」

ウェズは静かに言った。ごく自然に、「死んだ」という言葉が舌に乗った。

――そうだ、あの若かった私は死んだのだ。ハハが望んだとおりに。

紳士は節くれだった手で顔を覆った。

「奥様は、今どうなさっていますか」

「私の事業が成功して、今は裕福に暮らしています。孫に囲まれて」

紳士はそう言うと、素直に布団へ向かった。ウェズは、いつもの小技は見せず、ただ黙って下着を脱いだ。そして、布団に横たわった。

「どうぞ」

紳士は――チチは、顔を陰部に近づけた。生ぬるい鼻息が、ふわりと陰毛にかかってくすぐったい。

――ああ、わたしは愛した人に、もう一度あれを見せている。

ウェズは、今までどんな客にも感じたことのなかった、性的興奮に酔った。

「……あなたのあれは、透明な香りがしますね」

唐突に、チチが言った。ウェズは聞き返した。

「透明? 」

「ええ。水晶のような、月の光のような」

月――ウェズは微笑んだ。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「さっきのお客さんは、チーズだって」

「いえ、断じて。私にとっては、初恋の香りです」

チチ……初めての恋人は、顔を上げると、ひそやかに笑った。

――ハハは、チチと幸福に暮らしているのね。私は、本当にいらない子になっちゃった。でも、チチに初恋の香りと言ってもらえるだけでも……。匂いでなく、「香り」と。月の香りがしたのだ。

ウェズは、脚の間にチチを挟み込んだまま、遠い少女時代に戻り、再び全てをやり直せるような気がした。だが、それが脳の生み出す、生存本能に基づく幻想だとも分かっていた。彼女は、ある決心を抱いて、チチの頭を抱いた……。

 

*****

 

その日の深夜、ウェズは古いノートを引っ張り出していた。昔書き上げた「釘」という童話だ。その話の最後に、数行付け足して、彼女はペンを置いた。

そして風呂に入った。

風呂は、ユニットバスなので、めったに湯を張らないが、今日はバスタブをゆで満たした。そして、彼女はゆっくりと湯船につかった。

――ハハ。もう、わたしのことは覚えていないよね。チチと、孫に囲まれた生活……わたしと妹には、縁がない生活だった。でも、ハハが叶えてくれた。月が流れていくように、わたしたちの時間も、縁も流れてしまって、もう届かない。

ウェズは、零れ落ちる涙をこらえようともしなかった。赤い月が、湯一面に薄く膜を張る。

――「子供は親を選べない」と言うけれど、「親も子供を選べない」よね。悪い子で、ごめんね。幸せになってね。そして、気が向いたら、許して。昔の、ハハの願い通りにするから。
ウェズは、風呂場に置いてあった、すね毛を剃るかみそりを手にした。そして、手首に当てて、湯の中で一気に刃でかすめた。

月と共に、ウェズの四十数年の記憶と、命が流れていく。思ったよりもゆるりとした死神の行進に、彼女は白銀の笑みを浮かべた。

――わたしの月、ハハのこころとチチの想い、それからわたしの魂を結んで……。釘にかけられた、花を束ねた後の赤いリボンのように。

 

その日の月は、禍々しくもすがすがしい紅の微笑を浮かべていた。

 

*****

 

翌日、数日後、変わり果てたウェズの遺骸が発見された。連絡が取れないことに不審を抱いた清掃業者が、アパートにやってきて見つけたのだ。
片づける場所がなく、年中出しっぱなしだったこたつの上では、ウェズが最期に書き上げた童話「釘」が置かれたままだった。ウェズは、源氏名のほかには本名を使わず、通称を用いて仕事をしていたことが判明した。その意図は定かではない。
ここに、童話「釘」を掲載して、偽りの名前で、酷な現実を生きた一人の女性の墓碑銘とする。

 

(4)墓碑銘

 

童話「釘」

 

「古びた机から取れかかって、今にも抜いて捨てられそうな一本の釘がありました。

しかし、机の持ち主の青年は、釘が傾いてぐらぐらしてて危ないといっても、それを抜いたりすることはありませんでした。むしろ、官吏になって初めて買ったこの売れ残りの机に愛着があったので、取れかかった釘も思い出のひとつとして、大切にしていました。

しかし、少しさびの浮き出たその釘に指をひっかけた青年は、傷から菌が入って思わぬ病にかかってしまいました。

あれほど元気に机に向かって作業をしていた青年が、床について、高熱にあえぐ姿を見て、釘はとても悲しく、傾いたからだをさらにかしげるのでした。

「釘くんよ」

机が気の毒そうに言いました。

「気持ちはわかるが、そんなにからだを浮かせていては、きみ、床に落っこちてしまうよ。そうすりゃ、あの管理人のばあさんがごみといっしょに掃き出してしまう。もう少し落ち着くんだね」

「だってね、机のじいさま」

釘はもだえながらつぶやきます。

「私のせいであの子は病気になってしまったんじゃないか。気になるどころか、からだが破裂しそうさ。ああ、じいさまよ、あの青年をなんとか元気にしてあげることはできないかね」

「そりゃあできるけれども」

年をとった机は気の進まない様子でどもります。

「釘には、不思議なちからがあるからね。からだから抜け出そうな、人間の魂をひっかけてこの世にとどめる力があるのさ。ただ、新しい釘はだめだ。お前さんよりもっとさびた釘がよいのだ。さびで、魂がうまくひっかかるのだね」

「やれ、ありがたい」

釘は嬉しそうに、またからだを揺らしました。

「私がもっとさびればよいのだから」

「しかしね…」

机は青年と釘を交互に思いやりながら虫のようにかすかな声でつぶやきました。

「どちらも幸せにはならないかもしれないよ…」

「かまうものですか。あの青年が元気になってくれることが幸せなのです」

釘は、ぐっとからだを張って、さびやすいように空気に身をさらしました。

釘がさびはじめて一週間、青年は動けるまでに回復しました。釘は、赤茶けて土のような色になっていました。そして、からだを空気にさらそうとぐっと伸ばしたせいで、もう一押しするだけで抜けてしまうくらいにぐらぐら揺れていました。
「なんだい、このみっともない釘は」

久しぶりに机に向かった青年が、さびた釘に気がつきました。やがて彼の病み上がりの顔は、青白さに怒りの赤みが増して紫色に変わりました。

「こんな汚い釘のせいで、俺は仕事にも出かけられないからだになったんだ。書類も貯まっているだろう。減給されるかもしれない。畜生め」

怒りにまかせて、青年は足で釘を蹴り上げると、釘は、ぽーんとベッドの側に音もなく落ちました。悪態をつく彼が、ぐりぐりと踏みにじると、釘のさびや汚れはすっかり取れて、買ったときよりもきれいになりました。それから、道端のくずのように、部屋の片隅に釘を蹴りやった青年は、すっきりしたように汗をぬぐって、また床につきました。

その夜、青年の容態は急変し、田舎からやっと上京した親戚が、開かないドアを破って入ると、変わり果てた彼の魂のぬけがらが、ベッドの上に横たわっていました。

 

貧しい官吏だった青年にはこれといって財産もなく、遠い血縁にあたる親戚は、出費がかさむのが嫌さに、街でいちばん安い木材で、小柄な青年のからだを横たえる、棺を作り、ごく簡素な弔いをして、ちいさな墓地に葬ったあと、わずかな家具やあの机を売りはらった金をにぎって帰路につきました。礼金が支払われなかったために、墓掘人夫が適当に埋葬した青年の墓は、どこにあるのかすらわかりません。

ただ、新しい釘をも惜しんだ親戚によって、部屋に転がっていた、そう、あの青年が蹴り捨てたあの釘が棺に打ちつけられたということです。

(了)

 

*****

(あとがき)

親子は他人の始まり。誰にも本名を明かさず、「童話」を残して孤独な自死を選んだ「ウェズ」の運命を、裕福に暮らすという母親は知らないままでしょう。

彼女の生きた証を知るのは、作者である私と、この作品を読んでくださったあなただけ。

 

 

 

 

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