短編小説

Chocolate Cosmos’ Eyes

1:キッカ

彼女は落とせない。どんなに言葉を尽くしても、心を揺さぶっても。

 

国武涼(くにたけ・りょう)は、彼女―担任教師、吉川かおり(きっかわ・かおり)の国語の授業を受けながら、頬杖をついて彼女の姿をじっと目で追っていた。

 

彼女を思い続けて、もうどのくらいになるだろう。涼は、教科書のページを適当に繰ってきちんと授業に参加しているようなふりをしつつ、そんなことを考えていた。

 

―入学式の後の、あのホームルームの時だから、もう一年近くになるのか。今が2月だからな。

 

涼は懐かしくなった。そう、あのホームルームは忘れられない。高校デビューの際の、恥ずかしいような、嬉しいような微妙な感情の入り交じった中で、彼女は親しげに声をかけ、涼が問題を抱えて登校しなければならないことを受け入れ、優しくクラスメートに紹介してくれた。しかし、何より涼の記憶に刻まれたのは、彼女の茶色がかった大きな目のふちから、かすかに血が流れた痕があったことだった。

 

優しげな、涼の好きなチョコレートコスモスに似た色をした瞳から、血の涙を流した女教師―涼の関心を引き付けるには十分だった。そして、涼は彼女を名字から「キッカ」と愛称で呼び始め、キッカに言わせれば「つきまとい」始めたのだった。

2:チョコレートコスモスの瞳に恋をして

「国武くん。聞いていますか?」

気づけば、キッカの繊細な、しかしのびやかな張りのある声が涼を呼んでいた。何度も名前を呼ばれていたらしく、周りのクラスメートたちはクスクスと笑ったり、冷たい視線を投げかけている。

 

そうした彼らの反応に、涼もまた過敏に反応してしまう。自分がからかわれているように思われてならないのだ。そのことはキッカが知っていて、できるだけ配慮して、クラスメートたちの反応が涼を刺激しないようにしてくれていた。

 

「すみません、聞いていなかったです」

 

涼は素直に謝った。キッカは、もう、と言うようにちょっとため息をついて、自分より背の高い涼を見上げた。キッカの生徒を思う優しさを、鏡のように映し出すチョコレートコスモスの瞳が、うるんで揺れた。虹彩が、コスモスの花芯のようにきらりと輝いた。

 

涼は、その目の艶っぽさに思わずどきりとした。

 

「今度はちゃんと聞いていてくださいね。明日、古典単語のテストをしますから、勉強してくること。まだ一年生だからといって、受験勉強をおろそかにしてはいけませんよ。毎日コツコツ、が肝要肝要」

 

国語教師らしく、キッカは自分の言葉にリズムをつけて弾むように言った。涼は、黙って聞いていたが、受験のことはどうでもよかった。ただ、キッカといたい―留年のことも、涼は真面目に考え始めていた。

 

3:片思いの連鎖

 

昼休みになった。冷えた弁当を一人で食べている涼の目の前に、女子学生の短いスカートと脚が映った。涼には、それが誰であるかすぐにわかったが、敢えて無視して、卵焼きを箸でつまんで口の中に入れ、噛み続けた。

 

「ちょっと、いいのかな?情報を手に入れたのに、聞きたくないのかな?」

 

「高柳。今、昼飯中。また後にしてくれよ。どうせこの間みたいに、大した情報じゃないんだろう?あの時は、吉川先生が日曜日に必ず立ち寄るカフェっていうのを聞いたけど、いくら待っても来なかったぞ」

 

「あら、そう?まあ、間違いもたまには、ね」

 

高柳絵美(たかやなぎ・えみ)は、いたずらっぽく笑った。ぶかぶかのアイボリーのベストをブレザーの下に着込み、下着が拝見できそうに短いスカートで、今時の女子高生のスタイルを決めている。しかし、そのほどよく細い脚を包む靴下の下に、ブーツの履き過ぎで蒸れた脚が水虫と同居していることは、涼だけしか知らない。この絵美は、涼のことが好きで、「つきまとって」いるのであるが、自分のことを知ってもらいたいためか、水虫のことまで涼に教えるのであった。おかげで、絵美については、本意に背いてキッカのことより知る羽目になっていた。

 

絵美は、涼がキッカに片思いをしていることを知っている。しかし、そのことでキッカに嫉妬するわけでもなく、彼女に言わせれば、すぐに涼と両思いになるより、刺激的で楽しいらしい。そして、彼女はクラス一の情報通で、キッカの情報も手に入れてくれる。そしてその情報と引き換えに、涼は絵美と弁当を食べたり、一緒に下校したりと戦略的パートナーシップの関係を結んでいた。

 

4:バレンタインのサプライズニュース

 

「今度の目当ては何だよ」

 

「えっと……」

 

絵美が珍しくもじもじする。涼は思わず卵焼きを箸から落としてしまった。いつもの絵美なら、「ああ、お義母様の卵焼き!」と、誤解されそうな発言をぽんぽんとしてのけるが、今日は違った。

 

「何だよ、気持ち悪いな。はっきり言ってくれよ」

 

「あの、国武くん、これ!」

 

意を決したように、絵美が小さな紙包みを差し出してきた。ペールグリーンの爽やかな色の紙包みに、かわいらしいピンクのハートを象ったシール。ハートの中にはご丁寧に”Love”という言葉が、ポップな書体で印刷されている。

 

そう、今日はバレンタインだ。涼ももちろん知っていたが、容易に見抜けるはずなのに、絵美がチョコを持ってくることを、なぜ予想できなかったのだろう。

 

「高柳、お前、俺が誰を好きか知ってるだろう」

 

「知ってるわよ。でも、私だって国武くんを好きなんだから、チョコを渡したいの!受け取ってくれたら、情報あげるわよ」

 

絵美は顔を赤くして、ふいとそっぽを向きながらも、手は涼にチョコを渡そうとしている。そう、こういうところが、絵美と涼は似ている。お互いに、相手に振り向いてもらえない恋をしているところが……。

 

「情報の内容による」

 

「はいはい。実は、これは内密の内密なんだけど、吉川先生、寿退職らしいわよ。来月結婚するんだって。それでね―」

 

結婚。涼は、もう一度絵美の言葉を頭の中で繰り返した。キッカが、結婚―。それは、もちろん妙齢の女性なのだから、結婚してもおかしくはない。しかしキッカが結婚してしまったら、もう今までのようにアプローチできない。何しろ、人妻なのだから。涼は、自分の結婚願望が薄いのもあり、キッカが結婚するかもしれない、などと考えたことがなかった。そして、見捨てられたように感じた。

 

ただの生徒、それだけよ。キッカが、涼の頭の中で、花の瞳を揺らしながら笑った。

 

キッカのチョコレートコスモスの瞳を、もう一度見たい。俺だけを映すように。

 

「高柳、チョコはちょっと待ってくれ。俺、吉川先生に確かめる。それからの話だ」

 

「え、ちょっと、これは内密の話で―」

 

絵美があわてて言いかけたとき、教室の引き戸が開いて数学の教師が入ってきた。絵美は、不満そうに席に戻っていった。

 

涼は手を挙げた。

 

「先生。ちょっと具合が悪いので、保健室に行ってきます」

 

教師は、数式の説明をしながら、軽くうなずいた。涼は教室をそっと出た。絵美の、後悔を込めた泣きそうな視線を浴びながら。

 

5:カウンセリングルームにて

 

涼は、キッカが職員室にいなかったため、迷いなくカウンセリングルームに向かった。ここに常駐しているスクールカウンセラーに、キッカが何事かを相談しているのを知っていたからである。涼は、きっと彼女が自分への対応の仕方について悩みを打ち明けているのだろうと思っていた。

 

しばらく、花の写真が飾られたカウンセリングルームの近くで待っていると、果たしてキッカが出てきた。涼に気づかず、年配の女性カウンセラーに挨拶をしている。ドアが閉められ、キッカが一人になると、涼は彼女の前に立ち、無理やりその華奢な腕を引っ張った。

 

「キッカ、来て」

 

「どうしたの、国武くん。そんなに引っ張らないで。あなた、自分が思っているより力が強いのよ」

 

キッカは引っ張られて、小脇に抱えた宿題のノートを落とさないようにするのに懸命で、涼の悲痛な顔は見ていないようだった。

 

6:猛る思い

 

「キッカ、ここなら誰もいないね」

涼がキッカを連れてきたのは、屋上につながる踊り場だった。そこは、静かで目立ちにくいため、これまでも涼がキッカを伴ってきて、一度でいいからデートしてくれるようにしつこく頼み込む場所でもあった。

 

「どうしたの、国武くん。顔が真っ青よ」

 

キッカ。何も知らないキッカ。俺がキッカの結婚を知らないとでも思っているのか。俺は、ここでキッカに何度もデートしたいと頼んだ。キッカの目に、血がうっすら残っていたあの時から、俺はキッカが好きだった。問題を抱えた俺を、キッカは優しく癒して、みんなにとりなしてくれた。俺の生活には、息を吐き続ける限り、キッカ、あんたが絶対必要だったし、これからもそうなんだよ……。

 

「キッカ」

涼は、キッカと向き合って立った。歩を進め、キッカの髪の香りが漂うところまで、体を近づける。ほんのりチョコレートのような香りがした。キッカはえくぼを浮かべる。

 

「どうしたの」

 

「キッカ、結婚するの?退職しちゃうのか?」

 

「あら!」

 

キッカは目を涼からそらした。

 

「知っていたのね。きっと高柳さんから聞いたのね……」

 

「本当なのか」

 

涼はできるだけ声を落とした。声に重みをつけ、真剣に考えていることをキッカに知らせるために。

 

「本当よ。できれば、あなたには最後まで知らせたくなかったのだけど」

 

その言葉を聞いたとたん、涼のもやもやとした、夕霧のようにつかみどころのなかった怒りが爆発した。

 

「情けのつもりかよ!俺は、あんたが好きだった……本当に、好きだった。なのに、あんたは結婚する。退職して、俺の前からいなくなってしまう。あんたの瞳が、俺を癒してくれたんだ。こんなことになるなら、最初から優しくしないでほしかった。生徒……ただの生徒だから、優しくしてくれたのかもしれないけど、俺はあんたを女の人として好きになって、あんたと対等になりたいと思った。本気だったよ……いつでも、本気だったんだ。あんたにとっては、俺は去年まで女子中学生だった、性同一性障害を抱えた、高校で男としてデビューしたやっかいな生徒だったかもしれないけど……俺は……」

 

涼はいつの間にか泣いていた。キッカが現れてから、ずっと忘れていた、痛む心が流す涙だった。

 

7:望んで得られぬひかり

 

「涼くん」

 

キッカが呼んだ。それは、カーテンの隙間から射し込む朝日を思わせるようなぬくもりを含んだ声だった。そして、キッカが初めて涼を名前で呼んだ瞬間だった。

 

「ありがとう。あなたの気持ち、とっても嬉しいわ。私にも、少しお話させてね」

 

キッカは、宿題のノートを床に置き、踊り場の階段に座った。スカートがめくれないように、さりげなくポケットからハンカチを出して膝にかける仕草が優雅だった。涼もキッカの横に座った。

 

「私は確かに結婚するわ。でも、その相手は好きな人じゃなくて、昔のバイト先のお客だった人なのよ。私の父は、私が大学生の頃に、交通事故で亡くなったのだけど、大黒柱の父がいなくなって、私は大学どころか家族のためにバイトをする日々だったのよ。お金を少しでも稼ぐために、水商売で働いたりもしたわ。私の夫になる人は、その時のお客よ。私が教師をやっていると知るや、突然やって来て、私の過去を言いふらすって脅してきて……悩んだ挙げ句、まだ将来のある弟や妹たちのために、スキャンダルは避けたいから、相手の望み通りに結婚して、専業主婦になることにしたの。だから、私の望んだ結婚じゃないってことを、あなたには分かっていてほしいのよ」

 

彼女は、涙をそっと手でぬぐった。よく見ると、目のふちが切れて、血が少し流れている。このことのために、キッカは血の涙を流していたのか……。涼は、キッカの目もとに指を伸ばして、血をぬぐった。

 

「俺と逃げようよ。俺、キッカをずっと大切にするから。誰も知らないところに、一緒に行こう」

「……ありがとう」

 

キッカはうつむいたまま言ったが、やがて思い出したように顔を上げて、宿題のノートの山に手を伸ばし、涼のノートを引っ張り出した。

 

「これ、家で見てちょうだい」

 

「どうして」

 

「どうしても」

 

「わかった」

 

涼はノートを受け取った。キッカはほっと息をついて立ち上がった。

 

「さあ、授業に戻って。私も職員室に戻らなきゃ。それから涼くん、私じゃなくて高柳さんを幸せにしてあげなさい。あの子には将来があるわ」

 

「キッカ」

 

涼は、どうしても知りたかったことを、はにかみながらキッカに聞いた。

 

「俺が、女じゃなかったら、好きになってくれていた?」

 

キッカは踊り場の上に取り付けられた、採光のための小窓から、光があふれてくるのを見つめながら、ささやくように答えた。

 

「涼くんが、女性でも、男性でも、こんな私を好きになってくれた光よ。闇の結婚より、私は光を選ぶわ」

 

8:ささやかな贈り物

 

涼は、自宅に戻った後、早速宿題のノートを開いた。そこには、一枚の栞が挟まっていた。

 

栞は、少々細長いハートの形をしていて、赤というより一昔前に流行ったルージュのような紅色で彩られている。そして、中心に白い円形のシールがある。それを剥がして、こすると香りがする仕掛けらしい。

 

涼はシールをそっと剥がして、爪でこすった。鼻を近づけると、ふわりとチョコレートの甘い香りがした。

 

―ああ、キッカの香りだ。

 

涼は、目を閉じてしばらくその香りを楽しんでいた。

 

キッカからの、思いがけないバレンタインのプレゼントだった。涼は、香りを堪能した後で、栞を大切に机の引き出しにしまった。

 

9:君に手が届くまで

 

そのとき、携帯の着信音が鳴った。この音楽―ショパンの「雨だれ」は、絵美からのメール着信に設定している曲だ。チェックすると、やはり絵美からのメールだった。

 

「国武くん、チョコは受け取ってくれないの?」

 

いつもの絵文字たっぷりのメールではなく、しょんぼりした絵美の様子が伝わるメールだった。

 

涼はしばらく考えていたが、絵美に電話をかけることにした。

 

しばらく呼び出し音が鳴った後、絵美が出た。思いがけない涼からの電話で、声が少し弾んでいる。

 

「国武くん、電話ありがとう」

 

「高柳……俺、やっぱり吉川先生が好きだよ。結婚してもずっと好きだ。それに、悪いけど、俺は……女なんだ」

 

電話口の向こうで、沈黙が流れた。しばらくして、絵美が小声でゆっくり言った。

 

「知っていたわ。でも、本当は女子でも、私は国武くんが好きなの。諦めないわ」

 

涼の口元が自然にほころんだ。そうだ、絵美の情報網を忘れていた。しかし、諦めないとは、いつも陽気な絵美らしい言葉だった。

 

「嫁ぎ遅れるぞ」

 

「国武くんのお父さん、お母さんは心のお義父さま、お義母さまだから大丈夫よ」

 

涼と絵美は、電話越しに同時に笑った。涼は、笑いながらキッカを思った。

 

キッカ。俺はキッカを諦めない。俺が男になって、いつか迎えに行くまで、待っていてくれ。

チョコレートコスモスの瞳を咲かせたままで。

 

2014.2.8.
Happy Valentine’s Day!

 

 

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